【クラシックカー解説】BC戦争と醜いアヒルと呼ばれた車 日産 2代目 ダットサン ブルーバード 410型[NISSAN 2nd DATSUN Bluebird/410]

クラシックカー解説
アリアル
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今回紹介するクラシックカーは2代目ダットサン ブルーバードです。

ブルーバードは現在シルフィとして、6代目(910型)までは「ダットサン ブルーバード」の名前で販売されていた日本の自動車史を代表する小型セダンです。

ミリアル
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ダットサンは日産の前身となる会社となり現在は

日産が海外モデルで使用しているブランド名です。

トヨタと熾烈な販売競争が激化していく1959年にはダットサン210型は対抗すべく
ダットサン ブルーバードへモデルチェンジしました。

当時は一般家庭が自動車を所有するにはまだまだで、その多くが法人向けやタクシーとして使用されていました。
そして最大の競合車種はトヨタの「トヨペット コロナ」でした。

この2台は日本の自動車産業の将来性を確信させる画期的な製品として高い評価を受けましたが
自動車の販売競争が過激になるきっかけとなり、二台の頭文字をとった 「BC戦争」と呼ばれるようになりました。

今回解説するにあたってこちのの書籍を参考とさせていただきました。

ブルーバード物語―日産対トヨタ 技術者たちの熱き戦い

ダットサン ブルーバード410型

アリアル
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それでは今回解説する2代目ダットサン ブルーバード 410型についてみていきましょう。

1965年 ダットサンブルーバード 1200 デラックス

モデルダットサンブルーバード 1200 デラックス
年式1965年
型式P410
全長3,995mm
全幅1,490mm
全高1,440mm
ホイールベース2,380mm
トレッド(前/後)1,206/1,198mm
車両重量915kg
エンジンE1型 (直4・OHV) 1,189cc
最高出力40KW(55ps)/4,800rpm
最大トルク86N/m(8.8kgm)/3,600rpm
サスペンション(前/後)ダブルウィッシュボーン/縦置リーフ
ブレーキ(前/後)ドラム/ドラム
タイヤ5.60-13-4PR

BC戦争真っ只中、日産は更なる市場確保を狙う為に、1963年にブルーバード310型は410型へモデルチェンジしました。
先代のセミノモコック、ラダーフレーム構造を廃止し、日産初のフルモノコック構造を採用しました。初代ブルーバードに比べ全長で105㎜、ホイールベースは100㎜長くなり全高は一気に65㎜低められ、モノコック構造の恩恵で車重は10~30kg軽くなりました。室内長は175㎜延長され、独立したフードに覆われた半円形速度計を中心とするシンプルなコンビネーションメーターは後にマイクロバス「エコー」を含む日産系商用車に多数流用される1960年代日産車の汎用デザインともなりました。

最大の特徴となるボディデザインはカロッツェリア・ピニンファリーナに委託されました。当時としては1965年の自動車輸入の自由化に備え、欧州のデザインを採用する傾向が強く、2代目セドリック、マツダ・ルーチェ、いすゞ・117クーペ、プリンス・スカイラインスポーツ等のいくつかの自動車がイタリアのデザイナーを採用していました。

410型は横から見るとボディラインが緩い放物線を描き、うしろに行くにしたがって尻下がりになっていました。さらにこれを強調したのが二本のキャラクターラインでした。
その尻下がりなデザインから「みにくいアヒル」と揶揄されてしまいました。

ミリアル
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車体の小ささも相まって可愛いお尻だと思うけど

今だと人気が出そうなデザインな感じがするね

アリアル
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側面から見たらわかるけどリアまでに流れるラインは確かに違和感があるけど

これについては全長の短さが原因とも言われているわ。

タクシー兼用を考えていたために、車体寸法に制限を付けすぎ、ピニンファリーナのデザインを存分に発揮できなかったそうね。

翌年の1964年にはスポーツモデルの1200SS(スポーツ・セダン)が追加されました。
1200SS はのちにブルーバードの代名詞になった「SS」や「SSS」などのスポーツモデルの草分けです。ツインキャブレターを搭載した1200cc の「E 型」エンジンは65 馬力と必要十分なパワーでしたが、1965年にはマイナーチェンジで411 型へとなりました。

1966年 ダットサンブルーバード 1300SS

また1966年のマイナーチェンジでグリルやリヤエンドデザインが変わり、エクステリアのイメージが初期型から評判の良くなかった尻下がりのボディ形状を改める大幅な変更をしました。
この変更でテールランプが独特の形状であった通称「鍵テール」から平凡な形状に変更されました。

モータリゼーションの始まり

1955年、通産省が公表した「国民車育成要綱案」は自動車メーカーにとって技術的な挑戦目標が提示されたとも言えるものであったためにこの構想に呼応するように各社からは様々な自動車が販売されていきました。

その中でトヨタからはミドルクラスセダンであるトヨペットクラウンと日産からはダットサン乗用車110型が登場しました。

その頃はまだ自動車を所有する家庭は少なく、自動車販売はタクシー業界に支えられていた時代でこの2台はタクシー市場で販売を拡大していきました。その頃から中型クラスはクラウン、小型クラスはダットサンという図式が生まれました。

トヨタと日産は、相手の得意な市場に進出しようと狙っていました。日産は1960年に「セドリック」を発売し、クラウンに対抗、トヨタもダットサンに対抗すべく、1957年に「コロナ T10 型」を発売しました。

「青い鳥」誕生

コロナの登場を受けて210型へとモデルチェンジしていたダットサン210型の評判は良く、対するコロナの評判は良くありませんでした。開発期間1年足らずの超スピードでシャシーまわりはクラウン、ボディ周りはトヨペットマスターの前後左右を、小型タクシーの寸法枠内に詰めた寄せ集めともいわれるような、応急作であったため、さらにはエンジンは旧式のサイドバルブエンジンのまま、パワー不足と開発期間の短さから不具合が多発しコロナの販売の勢いは徐々に失速していきました。

コロナが発売された翌年の1958年、日産はアメリカに466台を輸出した、対米輸出の記念すべきスタートでしたが、世界の強豪メーカーと海外市場で張り合うには110型や210型では役不足であったため、世界戦略車として意識された新型車である「ブルーバード 310型」を発売しました。

名付け親は川又 克二社長でメーテルリンクの童話「青い鳥」にちなみ、この新型車が希望の青い鳥として世界に羽ばたいてくれることを願ったものでありました。

エンジンは従来の1リッターと、1.2リッターの2種類で、ボディー構造は当時のトラックの流用でもあるラダーフレームでありましたが、まだモノコック構造の技術が完全に習得できていなかったために、新規にセミモノコック構造を開発して、剛性アップと軽量化を図りました。

前輪には固定軸だったものを、ダブルウイッシュボーン式を採用し、その結果、先代と比べ車重を大きく増やすことなく軽量化と剛性アップ、そして走行性能に大きなメリットが生まれました。
ブルーバードは全国各地の販売店では空前の大盛況となり、注文に応じきれない為、販売から一か月後にはバックオーダーが8,000台に達しました。

ブルーバード発売の2カ月後、コロナは負けじとマイナーチェンジで対抗しました。旧式であったエンジンを新型OHV式エンジンに変更し、エンジン出力でブルーバードに勝ちました。しかしブルーバードの勢いはとまらず、コロナは発売後半年でようやく3500台を販売した程度とまだまだブルーバードには程遠い販売台数でした。

この頃から、ブルーバードとコロナの競い合いを評して“BC戦争”という言葉が使われるようになりました。高度経済成長期の真っ只中であった日本は、法人以外に一般家庭も徐々に自動車を所有するような時代になっていきました。

つまづいたトヨタ


1960年4月、トヨタはブルーバード打倒を目指し、コロナのフルモデルチェンジ行いました。
T20型となった2代目は 欧州的なデザインとなり、当時の日本車の水準を越えた流麗なもので、先代とは異なるスタイリッシュなデザインは当時増加傾向にあった女性ドライバーに好評でした。

販売キャンペーンにも新しい方式を、現在は一般的ですが発売前から新聞紙上にシルエットや外観の一部を公開した“ティーザーキャンペーン”が功を奏し評価は上々でした。

販売は順調な伸びを見せ、この年の12月までの登録台数は2800台以上となり、先行するブルーバードの4700台に迫るような勢いをみせていました。

しかし2代目コロナに発売後すぐに悲運がおきました。
走行中に突然フロントガラスが粉々に割れるという事故が多数報告されるようになりました。
原因はピラーが細いためにボディの組み立ての際の溶接でゆがみが発生し、取り付けたフロントガラスに過剰なストレスを与えていた為でした。

また最大の特徴だったカンチレバー式のリアサスペンションでも問題が起きました。優れた操縦性と乗り心地を実現していましたが、当時未舗装が多かった地方の道路でタクシーとして酷使されると、後席の人が飛び上がるほどの挙動が発生し、耐久性の問題が露呈しました。

こうして主にタクシー業界で不評が広がり、当初好調に立ち上がった販売も1960年末頃には伸び悩むようになり、ブルーバードの優位は、T10系の時代と変わらず続き、トヨタは乗用車メーカーとして国内2位の座に甘んじることになりました。

醜いアヒルと大衆に応えたコロナ

1961年には物品税法の改正で自動車の物品税率が30%から15%になり各メーカーの自動車の販売価格が下げられました。
セドリックで12万2000円、クラウンで20万6000円の値下げが行われ、
さらに1960年に池田内閣の下で策定された長期経済計画である国民所得倍増計画によって成長体制が整備された結果、高度経済成長によって庶民の所得は上がる、車の価格は下がるでますます乗用車のシェアが増えていきました。

ブルーバード310型は累計生産台数が21万台に達し、そのうち3万2000台が輸出され、当時の最高記録を打ち出した日産はさらなる快進撃に拍車をかけようと1963年に「ブルーバード410型」発売しました。

310型発表当時はアメリカでは絢爛豪華なデザインが流行していましたが、すでにユーザーからはヨーロッパの小型車らしい機能的なデザインが受け入れられるような傾向が見えてきてたため、世界戦略車種であるブルーバードは先手を打つ形でイタリアデザインへとなりました。

海外では順調であった410型でしたが日本での結果は思いのほか悪く、肝心なデザインが不評となってしまいました。欧州調の尻下がりデザインは日本の大衆には合わず販売台数が伸び悩みました。

トヨタは先代の失敗を踏まえ、十分に市場動向を見極めたうえで1964年に新型である3代目コロナT40型を発売しました。

旧型よりもボディサイズは大きくなり、フロントからリアへ流れる「アローライン」と呼ばれた傾斜したフロントノーズのデザインが特徴でした。豪華でスポーティなスタイリングデザインより高級なモデルを求める大衆の願いに応えることができました。さらにはトヨタは名神高速道路における連続10万km高速走行などのキャンペーンを通して高性能車としてのイメージを浸透させ、マーケティングの手法を用いた製品企画が有効なことをコロナは明確に示しました。

1965年1月、コロナは初めてブルーバードを上回る販売台数を記録、最終生産台数は57万8534台となり、1967年にはトヨタ自動車が月産8万台を達成した際、そのうち3万台を40系コロナが占めるほどの主力車種となりました。

コロナは販売で国内のトップに立ってから33カ月連続ベストセラーの大記録を樹立し、名実ともにトヨタの代表車種となりBC戦争と呼ばれた販売競争は次第に落ち着きました。

歴代ブルーバードの中での失敗作とも評される410ブルーバードですが、それは同時代のコロナというライバルと比べた際の相対的な話であって生産台数自体は初代310系よりも遥かに多く1966年にはは史上初めて累計50万台の生産記録を打ち立てました。
発売から2年半が経過したその時点で2代目410系ブルーバードは既に初代310系ブルーバードの4年間に21万台という数字を凌ぐ約29万台を生産、初代310系からの累計輸出台数も10万台を超えていました。

アリアル
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さて今回のクラシックカー解説はいかがだったでしょうか?

クラシックカーの魅力は、美しいデザインや再生産できないプレミアムな価値が上げられますが

私はその車の歴史が何よりの魅力だと思っています。

ミリアル
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今回解説したクラシックカーはYouTubeでも解説していますので

良かったらそちらもどうぞ!

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