【クラシックカー解説】小さなオープンスポーツカー Austin Healey Sprite 【オースチンヒーレースプライト】

クラシックカー解説

オースチンヒーレースプライトとは

ヒーレースプライトはかつてイギリスに存在した自動車メーカーであるオースチン・モーター・カンパニー(後にブリティッシュ・モーター・コーポレーションの1部門 )の2ドアオープンスポーツカーとなります。
1958年から1971年のシリーズ通して13年間製造されたモデルとなり、1950年代当時販売されていたスポーツカーであるオースチンヒーレー100が誰もが購入できる安価なスポーツモデルとして、また競技用のエントリーモデルとして登場しました。

Austin-Healey 100-6 BN6 Convertible
Austin Healey Sprite Mk1

オースチン・ヒーレー・スプライトMk.1は特徴的な外観から日本では広く「カニ目」の愛称で呼ばれています。アメリカではバグアイ(虫の目)、イギリスではフロッグアイ(カエルの目)とあだ名されています。

オースチンヒーレースプライトの歴史

1952年、オースチン、モーリス、ウーズレー、ライレー、MGを含む多くの英国の自動車メーカーが合併し、ブリティッシュモーターコーポレーションが設立されました。
また同年に、オースチンはデザイナーであるドナルドヒーリーと契約を結び、新しいスポーツカーブランド、オースチンヒーレーを設立しました。

1953年に販売したヒーレー100は競技車として好成績を収め、また約15,000台の売り上げ商業的にも成功しました。しかし当時のスポーツカーといえば大型で高性能かつ高額であったため、より多くの人々が乗れる大衆車が必要とBMC会長、レオナード・ロード卿は感じていました。
ドナルド・ヒーリーは小型で小排気量スポーツカーの開発を要請され、裕福ではない若者にも手の届く安価なスポーツカーの制作に着手しました。

Leonard Lord (left) and Donald Healy sitting in an Austin-Healey 100/4.

生産工場がMGの工場であったために親会社であるBMCの小型の直列4 気筒エンジン、通称「Aシリーズ」をベースに調整を施し、「オースチン A35」や「モーリス・マイナー」等の既存の車からの多くの部品を流用してコストを抑えました。
BMCの「Aシリーズ」エンジンは1951年にオースチンA30で使用され、その後、様々なバリエーションを出し2000年までの約50年近く使われた名エンジンとなります。
その中でも「ミニ」は1959年から生産終了の2000年まで基本設計はそのままで「Aシリーズ」エンジンが使用されていました。


フレームは当時の定番であったセパレートフレーム構造ではなくジャガーDタイプを参考にセミモノコック構造を採用しました。
世界初とも言われる量産モノコックボディーとなったヒーレースプライトはオープントップ特有の車両の剛性不足を解消しました。

The Austin-Healey Sprite unibody chassis.

スペックだけを見ればスポーツカーにしては43馬力程度と非力なスプライトでありましたが約600キロという軽量なボディにより最高速度は130キロとクラス最高レベルのスピードを誇りました。

フロントボンネットとフェンダーが一体化されたフロントカウルは、助手席側のバルクヘッド部分をヒンジで止められており、それを開ける事によってエンジンとサスペンションへアクセスできるようになっています。

また剛性確保とコストの面からトランクリッドの開閉機構をもたず設計されたため、ラゲッジスペースのアクセスはシートを持ち上げて潜るような形で使用されていました。

1958年5月に発売された最初のヒーレースプライトMk1はヒーレー100が約1060ポンドで販売していたのに対してわずか669ポンドで販売を始めました。
ヒーレースプライトの販売はすぐに成功し、生産した台数の約半分がアメリカへと輸出されました。
当時はイギリスのスポーツカーの需要が高く、北米では非常に人気となりました。多くの人々に経済的に安価でありモータースポーツのエントリーモデルとして市民権を得ました。販売してからわずか3年で約49,000台のMkIが製造され、その後、ほぼ同時期に販売された姉妹車であるMGミジェットとヒーレースプライトは世界中の車好きへライトウェイトスポーツの魅力を伝え「スプリジェット」の愛称で呼ばれるようになり、最終的にこの2台は約356,000台製造されました。

カニ目の愛称をもつMk1

製造年:1958年‐1961年 製造台数 48987台

デザイナードナルド・ヒーリー
ボディスタイル オープン2シーター
エンジン948 cc 
水冷直列OHV4気筒 
最高出力43馬力/5200 rpm
トランスミッション4速マニュアル
駆動レイアウトFRレイアウト
サスペンション前:コイルスプリング
後:リーフスプリング
ホイールベース2,032 mm
全長3,480 mm
全幅1,346 mm
重量664Kg

Mk1のヘッドライトは非常に特徴的で可愛らしいルックスになっています。
ボンネットの上部、フェンダーの内側に立てるように取り付けられていたため、英国では「フロッグアイ」、米国では「バグアイ」と愛称を付けられました。しかしこの設計は本来の意図をしない作りとなっています。
設計段階では使用していないときはレンズを空に向けて、ヘッドライトを収納できるように設計されていました。同様の手法を用いた車が数年後、ポルシェ928で採用されていました。
これはBMCによるコスト削減によりオミットされた機構の為、ヘッドライトは固定化されました。
しかし結果としてはこの愛くるしい姿が魅力となり良い結果となりました。

エンジンは調整された948㏄「Aシリーズ」を使用し、52lb / ft @ 3300rpmのトルクで43hp @ 5,200rpmを生成するツインSU1⅛ キャブレターが取り付けられました。

ボディ剛性については前述したとおりセミモノコック構造になっているため十分に確保されました。
パワートレーンやサスペンションは基本的にモーリス・マイナーからの流用となりますが
コスト削減と走行性能を高めるためにトランクリッドや内側ドアトリム、外側のドアハンドルすら廃止した本気のスポーツ思考モデルとなっています。

MGミジェットの姉妹車となったMk2

製造年:1961年‐1964年 製造台数 31665台

エンジン948 cc 水冷直列OHV4気筒 
(後に1,098 cc Aシリーズエンジンへ変更)
ホイールベース2,032 mm
全長3,305 mm
全幅1,346 mm
重量700Kg

AUSTIN HEALEY SPRITE MARK II

Mk2は1961年5月に発売され、外観の大きなモデルチェンジを行いました。機械的な箇所では大きな変更はありませんでしたが、ボディワークは完全に刷新されヘッドライトはフェンダー箇所へ、ボンネットはフェンダーと独立した一般的な機構となりエンジンのアクセスが容易となりました。
このボディは同年6月に販売されたMGミジェットと同じデザインであり、MGミジェットのOEM(バッジエンジニアリング)でした。その為、 MGミジェット側を上位グレード版(内装が豪華仕様)という位置づけで販売する形となりました。

MGミジェット MkI 

Mk1にはなかったトランクリッドが追加され分実用性がましましたが剛性不足を解消するために内部に補強を入れたことにより重量が増し約700Kgとなりました。


1962年にマイナーチェンジを行い、ロングストロークの1098 ccエンジンへ変更、シンクロメッシュを備えた強化ギアボックスが導入され、最高出力が56馬力へとなりました。同時にフロントディスクブレーキも導入されました。

利便性が向上し正常進化となったMk3

製造年:1964年‐1966年 製造台数 25905台

Mk3もはMGミジェットMk2としても販売されました。
Mk2時代と同じで、2種の違いは内装の細部とバッジのみとなっておりその他大きな違いはありませんでした。
外観についての主な変更点はウインドウとドアになります。
アップサイドウインドウ(上下開閉の窓ガラス)と回転式のクォーターウィンドウ(日本では三角窓の愛称)僅かに曲面になったフロントウィンドウと
ドアロック機構がついた外側のドアハンドルが上げられます。
またリアサスペンションも改良され快適になりました。
エンジンは、エンジンブロックとクランクシャフトの強化が図られ最高出力は5750rpmで59馬力と僅かに向上しました。

Mk4とオースチンスプライト

製造年:1966年‐1971年 製造台数 22790台

スプライトがMk4とミジェットがMk3になった2台はエンジンを1275㏄へ拡大、6000rpmで65馬力を発揮できるようになりました。
ソフトトップルーフは使用しないときは取り外しトランクへ収納するコンパーチブルトップからシート後方へ折り畳む方式へ変更し、利便性がはるかに向上しました。
一見正常進化と言えるMk4でしたが、同じAシリーズの1275㏄エンジンを搭載していたミニクーパー「S」の方がよりチューンされたエンジン(76馬力)だった為、結果としてファンからは失望されてしまいました。

1968年、BMCはレイランドグループとローバーグループと合併しブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション (BLMC) となり、そのタイミングで更なるコスト削減の為のマイナーチェンジを行いました。
2台のスプリジェットはバッジ以外はほぼ同一となり、ドアシルが黒く塗装、フロントグリルがメッキから黒へ塗装などの明らかなコストダウンの結果が見られます。

1972年MGミジェットMk3

また1971年に(BLMC)はドナルドヒーリーモーターカンパニー(ヒーレースプライトの設計会社)への契約合意を破り、ロイヤリティを支払うことをやめたため、ヒーレーの名を外し「オースチンスプライト」の名で1,022台が1971年の1月から7月まで販売していました。
スプライトMk4の代わりにMGミジェットMk3は1974年まで製造され、その後MGミジェット1500となり1980年まで製造されました。

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